落ちこぼれは落ちこぼれのままで
落ちこぼれとは何か。規模に大小はあれども、ある集団の中で何らかの指標をもとに、集団に属している者同士を比較し、優劣を評定し、下位集団いわば劣位に位置する者達を自分または他者もしくは両者が「落ちこぼれ」と評する。
ちなみに、下位集団の中でも比較は行われ、劣っている者たちの中にもまた優劣が存在する。そして、その中でもまた比較が行われ、優劣が存在し、落ちこぼれが生まれる。
つまり、何らかの集団に属し、比較意識をもつ限り、落ちこぼれは果てしなく生まれ続ける。
比較すること自体は悪いことではない、と考えている。例えば、自身の仕事が教師であり、他の教師の指導方法と自身の指導方法を比較し、「もっとこうしたら自分の指導が良くなり、担当する生徒に寄与できるものを増やせるかもしれない」などと自己の研鑽に繋がる可能性がある。これはいわゆる「健全な比較」とでも言うべきか。
では、このような健全な比較をするためにはどのように「比較」を行えば良いのか、一方で落ちこぼれが生み続けしまう比較、いわゆる「健全ではない比較」というのはどのようにして行なっているのか、その2点について考えることが、「果てしない落ちこぼれ」について昼夜問わず想いを馳せてしまう時間を少しでも減らせるに違いないだろう。
まずは1点目、「健全な比較」を行うためにはどうすれば良いかということだ。結論は既に出ている。それは、自分の人間性と自分の行動を切り分けて考えるということだ。
どういうことかと言うと、先の教師の例の中でも出した、他者の人間性と自身の人間性を比較するのではなく、他者の指導方法を参考にして自身の指導方法を変えるなど、自分の行動に着目するということである。自身よりも指導方法が優れており、自身に取り入れられそうな部分を取り入れてみる。
ここで肝心なのが「あいつはこんなにも優秀で慕われていて、かたや俺なんて馬鹿にされて本当にダメなやつだ」と、主観的な大量の指標を持ち出して、相手の人間性含めて良いところの全項目をわざわざ一個一個自分と比較し倒して、自分が容易には変えられない部分にまで比較対象を広がるから生き辛くなる。
私は過去に出会ってきた人たちを思い出しては、自分が持ってない、またこれからも持つことはないであろうものを持つ人たちと、無数の比較指標を持ち出して、いかに自分が劣っているかを考えて、苦しみ、手に入らないのに手に入れようと自分なりに奮闘し、その果てに待っていたのが精神科に通院し、服薬治療を受けることだった。
もしあの時、「自分はこのままだ、でもこれからある日突然天才になって全知全能の神になって、あらゆることを即座に解決し、みな想像し得ないことをたやすく生み出し、創り上げることができるはずである」という妄想に一旦区切りを付けることができたら、もう少し今とはマシの人生になっていたのかもしれない。
コミュニケーションや助言が上手い人がいて、他者からの相談事にもそれなりの解決策を提示できる人がいて、私はその人に憧れた。同じようになりたいと。でもそれは叶わぬ願いであり、ただの非論理的な妄想であると服薬しながらふと思った。
そこで私がこのあたりは自分にもできそうかもと、ちょうど良い比較ができたらよかったのかもしれない。それに今書いていて思ったのが、その人に直接聞けば良かったのかもしれない。
私は相談が苦手だ。だからいつも自分の中でしか考えず、勝手に完結させて苦しんでいる。人に聞いたら馬鹿にされると妄想してしまう。いつからこんな感じなのだろう。気が付いたらこんな感じになっていた。まぁずっとこんな感じの人間に違いない。
健全な比較について考えていたのに、結局はまた不健全な比較ににじり寄っている。
しかし、比較の仕方や考え方はグラデーションであると思う。健全かそうでないかという二元論ではなく、健全からそうでないものまでは地続きであり、どこに位置していることが多いかが大事なのではないか。不健全の色が濃い域に位置していることが多ければ、それはきっと大変な苦労があり、生きづらくて生きづらくて仕方がないだろう。
自分という人間性はおそらく変わらない、自分は自分であり、他の他者にはなれず、仮にもなろうとしても、最後は結局自分になり続ける。
変えられるものがあるとすれば、それはきっと行動の部分だ。もちろん「今から東大目指します」と頭が悪い自分にはちょうどよくない行動を取ってしまえば後々歪みが来て、痛い思いをすることになる。比較し、変えようとするならまずは自分にとってとっつきやすいところから行動していくと良い。
自分の人間性と行動を切り分け、自分にとってちょうどいいものを見定めてから実際に動いてみると、案外自分にとってとっつきやすいものを少しずつ見つけられるようになり、それがやがて今の自分でもまぁいいかと思えるようになるのかもしれない。
そうなったらいわゆる「健全な比較」さえも気にすることは減り、自分自身に集中し、熱中し、夢中になれるかもしれない。
たくさん書くつもりはなかったが、気が付けばこんなにたくさんの文章量になっていた。
健全な比較をも通り過ぎていくにはまだまだ道のりは長そうだ。
そして、2点目についてはもう書くのに疲れたから、とりあえず今はどうでもいいことにした。
恥ずかしい日々
事務作業が遅い。
指示されたことを理解するのが遅い。
相手の言った内容の意図を察するのが遅いし間違える。
社会人としてむちゃくちゃだ。
どうしようもない。
どうしようもないけど働くしかない。
奨学金を返さないといけないし、ローンもある。
人と比べると恥ずかしくなるし、情けなくなるし、「どうして自分はいつも遅いんだろう」「どうして周りの人が普通にしていることが自分は普通にできないのだろう」と常に思っている。
昔は思わなかった。自分の周りの世界に気づいていなかったからだ。周りには人がいて、その人たちはよくできる人たちで、かたや私は実はものすごく出来が悪くて、どうしようもないくらい能力が低い。こういうことに気づいてしまってからは私の自己肯定感と呼ばれるものはジェットコースターのようにうねりまくっている。
あぁ悲しい。人と比べたら辛くなる。でも比べてしまう。
何とも生きづらい。生きづらいのは自分だ。
親戚の集まりで勝手に劣等感を感じて、勝手にイライラしたGW初日
どうも、情緒不安定真っ盛りでございます。
ゴールデンウィークはありがたくお休みをいただけたのでメンタルの回復に努めようとしました。しかしそれは早くも暗雲が立ち込める事態となりました。
親戚の集まりがあり、かつ義理の家なのでかなりきつい。何がきついって周りのコミュ力の高さに圧倒されることと、「コミュニケーションできねぇな」「苦手なんだな」って思われてると思うと頭がおかしくなることと、でもそんな被害妄想を抱いている自分が一番面倒くさくて一番頭がおかしくて、ぶっちゃけ周りが他人なんてそんなに気にしてないという事実もあることを思い出して、より一層発狂したくなるような状態である。
周りの人は本当にコミュニケーションが上手い。悲しくなるくらい、劣等感を感じる。
劣等感なってこっちが勝手に感じて勝手にイライラしているだけで、本当にどうしようもないことなんだけど、それはわかっているんだけどそんな思考になってしまう。
本当にだめ、もう死にたい。早く消えたい。
木っ端微塵となって消え去りたい。
業務の引き継ぎを十分に行えないまま新年度を始めてしまい、毎日がてんてこ舞いである。なにぶん私は根っからの不器用でコミュしょう(この言い方は好きではないが使ってみた)で、段取り下手で判断が遅れがちで決断が遅れるし外れるしで気がつけば心と頭の中は焼け野原である。
ハゲているということを言いたいわけではない。頭の中がパンクして、心根もいつも以上にひん曲がって精神的におかしくなっていると言うことを言いたい。虚無感に襲われると言うことを伝えたい。ちなみに私はハゲている。年々頭髪が薄くなっていることを毎日のシャンプーで振り替えざるを得ない状況だ。
冗談めかして書いているが正直言うと生きるのがしんどい。辛い、つらすぎる。周りが頑張っているから自分も頑張ろう、家族のために頑張ろう、そんなことを考えてタフに生き抜くことを理想としていたが私にはそのやり方は無理だった。今は昔以上に周りのことなんてどうだっていいし、何より自分なんてどこかに木っ端微塵に吹き飛んでしまえばいいと思っている。本気だ、これは本気なのだ。
じゃあ今の私に重大な病気が見つかって、明確な余命という一種のゴールが見えたとしたら、私はそこに向かって全力疾走ができるのだろうか。多分、いや絶対無理だ。そんな度胸はない。
でも今すぐどこか遠くへ消えてしまいたい、一言でいえば単なる現実逃避だ。今のこの状況から消え去ることができればいい。
でも、逃避した先でまた同じような状況に出会したらどうすればいい。もちろん逃避だ。それしかない。今までもそうやってやり過ごしてきたし、これからもきっとそうするだろう。
予備校講師の林修大先生が仰っていたことを思い出す。仕事というのは大きく分けて二つあると。「創造」と「解決」だと。それら二つのどちらかができればいいということであった。
それを聞いて私はさらなる絶望を覚えた。創造なんてできなし、解決なんて人生でしたことがない。せいぜい妄想して今とは異なるスペックで優雅に生きる世界線を夢見るくらいだ。
こんな人生を送るつもりじゃなかった。可能であれば挽回したい。でもその努力をしようとは思えない。今はとにかくここから消えたい、一瞬で木っ端微塵になって何もなかったことにしたい。
「新型うつ」という言葉の功罪
今月は先月よりかはメンタルが安定しているが乱高下は消えない。
やりたいことを書こうとしたけど、何だか胸のあたりがざわざわして手が止まる。と言いつつ書いてはいるがやっぱり苦しい。
一応やりたいことを下に書く。書いているうちに胸のざわめきが少し和らぐかもしれない。
以下、今年中にやりたいこと
・ステーキを焼く
・卵焼きの修行
・お弁当を作る
・散歩する
・新宿に行く
他にも色々あるけど浮かんでも書くのが辛い。
うつ病になると何も楽しめないというのはどうやら本当らしい。でも、昔は休日はまだ元気な方だった。
香山リカ氏が「新型うつ」と言って、私もその言葉の内容を聞いて、「休みの日は遊べているからうつ病じゃない。甘えなんだ。」と思うようになった。
それから10年くらい経ってしっかり本物の「うつ病」になりました。「新型うつ病」は「うつ病」の前駆状態なのではないでしょうか。
休みの日に遊べるのは「甘えだ」「もっと頑張れ」という意見がのさばるから休みなのに休みづらくなっているのではないでしょうか。もちろん捉え方は自分次第なので、そのように捉えなければいいのですが、捉え方というか認知というは周囲の環境からも影響を受けます。
なので、うつっぽい人がいたとしたら休みの日に遊べるならまだ心がマシな状態です。休みの日はしっかり遊んでください、休んでください。やりたいことがあったらやってください。
本物のうつになったら本当に気力が湧きづらくなります。そして元に戻ることはそう簡単にはいかなくなります。
やりたいことすらできなくなったら働く意味すらわからなくなってきます。仕事が生き甲斐ならそれでいいです。私もそうなりたいです。ですがそうはいかず、休みも休みでなくなってしまうようになったらメンタルは相当まずい状況です。
とにかく、やりたいことがあるならやってください。あと、休みは積極的に取ってください。
余計なお世話ですがどうか私みたいな人間が増えないことを願っているばかりです。
「死にたい」「消えたい」「どこかへ行ってしまいたい」と毎朝、毎晩繰り返すような人生を私は送りたくなかった。
限界の際からは少し離れました
相変わらず薬の量は増えては減り、また増えるを繰り返している。
情緒が穏やかな時とそうでない時の落差が激しい。この落差に人は苦しむのに違いない。かく言う私もその一人だ。
人間、自分自身のみではどうしようにもない状況に陥った時(自分が生み出してしまったのかもしれないが)、この先の身を案じて、なるべく不幸にならぬよう、なるべく快適に暮らせるような選択肢を選ぼうとする。これはヒトがもつ生存本能からくる一種の戦略であろう。
本当は死なずに今の状況を変えて、幸せに包まれている場所に移動したいのだが、今の私にはそれを実行するだけの体力も地力も精神力もない。今いる場所に在り続けるだけの力さえも底をついている。
そのはずが、周りの物や人々に当たり散らすだけの醜態を晒す力だけは残っている。これもある種のヒトがもつ最後で最低の本能なのか。そう言って、本来備えていると仮定した欲求をちぐはぐに自分の身体やそこから突いて出てくる言動に纏わせて、言い訳がましくのたうち回っては、自身の生にただただすがりつきたいだけではないだろうか。
こうなってくると話がややこしくなる。私は早くこの世から消えてしまいたいのだ。一刻も早くこの苦しみから逃れて、何も感じず、何も迫って来ず、ただひたすらにそこら辺に置かれるようなものになりたい。しかし、実際のところ私は生きようとしている。死にたいけど生きたい、生きたいけど死にたい、私の心は一晩中その選択に判別を付けられず、誰も通らないその道を行ったり来たりしている。
とにかく私が言いたいのは助けてほしいということだ。助けてくれ。この苦しみから解放してくれ。私は切に願う。