わたしには夢がある

自分なりに調べたこと、思っていることを書き記していきます。頑張ります。

この先の人生、どう生きていきたいか

なるべく後悔することは避けたい。しかし、自分の性格上後悔しないことはないだろう。なので、後悔の量を減らせたらいい。そのためには、「これをやってみたかったんだよな」と思っていることは残さずやれたらいい。

やりたいことの一つが書くことだ。このブログも書く活動の一つ。なのでやりたいことは既にやっている。

どう生きていくか。そんなことを考えている時点でもうダメなんだろうな。もっと、こう、なんていうか、何にも構わずに振り切って生きられたらいい。それが理想。でも、自分は変なところで人のことを気にしてしまう。これからも気にする、気にしない、気にする、気にしない、気にする・・・という堂々巡りを永遠に繰り返していくのだろうな。

なぜ自分は周りを気にしてしまうのか。その理由の一つは周りからとやかく言われるのが怖いのだ。自分にとって何らかのマイナス要素を含んだ発言に己の心身を曝したくないのだ。いやぁ、まぁなんとプライドの高いこと。いかに自分が傷つきたくないかがわかる。つまり、とやかく言われるのが怖いというのは、自分が傷つくことが嫌だからという意味である。これは極端な話になるが、この世に自分一人しか存在しなければ、自分はきっと理想の人生を生きられるということになる。

堂々巡りは続くが、自分を曝し、誰かから何らかの評価を下されることを恐れていては自分のやりたいことはできない。自分のやりたいことは、外界に向けて自分自身のことを書いて表現することにある。そう、矛盾しているのだ。では、非公開にすればいい話ではあるのだが、書いた内容についてポジティブな評価を受けたいという何ともおこがましい欲求もある。これを書いていて自分があまりに醜く、情けなくて救いようがないと痛感する。でも止められない。自分は他者の評価に依存して生きているのだ。他者はともかく、まずは自分はどうなんだというところを突き詰めていくと、行き着く先はなく、突き詰めても突き詰めても何も見えてこない。自分は一体何がしたいのか、何を大切にしているのか、自分の主体性や価値観が一体何であるのか、どこに向かっているのかがそもそもない。だから、人から言われることに対してつい左右されてしまい、気が付けばいつの間にか息苦しい日々を送ることになっている。

こんな日々をもう辞めにしたい。そう思ってきてみたものの、特に行動を起こすわけでもないから、これからも今までと変わらない日々が続いていくのだろう。

自分はだいぶ焦り過ぎているのかもしれない。焦っていてもどうしようもないことはわかっているが、それでも焦ってしまう。何者かになろうとしても自分がなろうとしている者が何のかがわかっていないので、その”何者”になれないのは当然の帰結。”書くこと”がやりたいことと書いたがこれすらも雲行きが怪しくなっている。

やりたいこと。世の人々は一体どうやって自分のやりたいことに行き着いているのだろうか。例えば、さかなクンなんて自分の理想の生き様そのものである。自分の好きなものに一心不乱にのめり込み、気がつけばそれを生業にもしている。もちろん、その裏では普通では考えられないくらいの時間と労力を費やしたに違いない。でも、さかなクン本人はそれを壮絶な努力だなんて思ってもいないのかもしれない。努力だなんて思っていたら物事はきっと続いていかない。気が付いたらこんなところまで来ていたというのが本当のところなのだと思う。

私には、何も考えずに気が付いたら続けてしまっているということがない。本当にない。書くことも、昔部活で顧問からサッカーノートを、塾の先生から小論文について褒められたことから、「自分には書くことが合っているのかもしれない」と思い込んで、「私のやりたいことは”書くこと”です」と言うようになったのかもしれない。なので、純粋に、無意識に、何の濁りも引っ掛かりもなく、気持ちよく「○○が好き!」と声高に周りに言うことすら必要がないほどの「これ!」といったものではないので、結局最後は周りに委ねてしまうことになる。

それではいけない。これからの人生、楽しく生きていくためには、自分が真にやりたいことを見つけたい。でも、このままでは「やりたいことって何だろう・・・」と考えては悩んでを繰り返して死んでいきそうだ。

どうすればいいのか。