今まであんまり有給休暇を取ってこなかったけど、今年度は自分なりの働き方改革として有給休暇を取るようにしている。
今まで有休が取れないわけではなかったんだけど、休み方が下手で、体調不良の時にしか取ってこなかった。
ただ、今思えば体調が不良になる一端は、休み方が下手なことにもあるのではないかと思った。
今年度は新しい職場1年目ではあるが、有休をしっかり取ろうと決意。しかし、いざ新しい職場での仕事が始まると、慣れるのに精一杯で、休みを取らせてほしいと上手く言えなかった。
でも、半年くらい経ってから思い切って休みを取るようにした。休みを取り始めたばかりの頃は、有休取得に違和感があり、せっかくの休日も仕事のことばかり考えていた。「休みの間に自分が何か落としていたことがあったらどうしよう」「何か言われてはいないだろうか」とわけのわからない妄想を描き上げて、自分で自分を追い込んでいた。今もそうだ。まだまだ有休取得に抵抗がある。迷惑をかけたらどうしようではなく、「迷惑をかけて何か言われたら嫌だな」という尊大なプライドによる心理的抵抗だと自分なりに考えている。
でも、休みを取ったって、迷惑かけたって、怒られたって、仕事がちゃんとできてなくてお客さんに怒られたって、もうこれは仕方がない。なぜならこれが自分の限界なのだから。「努力が足りない」「中途半端にしか頑張ってこなかった」、確かにそう言われたらその通りだと思う。実際にそう言われたこともある。
自分はそれを言われてからノートを書くようにした。仕事の反省などを記すためだ。そのうち、反省だけでなく勉強したことも書き記すようになった。でも、毎日は続かず、半年以上間を空けることも少なくない。でも仕方がない。これが自分の限界なのだ。自分は頑張っている。こんな感じでも自分なりによくここまで社会人を続けてこれたと思っている。
「努力」「向上」こそが社会人としての正しさ、誠実さだと思ってきたが、その結果、自分に見合わない働き方をして体調を崩し、休日を休日として過ごせず、通院し服薬治療が必要な状態になった。
頑張ることができる人はそれでいい、自分に合った頑張り方ができるのならなおのこといい。
私は自分に見合わない働き方、働く職場を選んできた。そして今日に至る。
みんなが安定した精神状態で10頑張れるところを、自分は2.1しか頑張れないなら、その2.1を安定した状態で頑張れるような職場、働き方をしたほうが私はきっと幸せになれると思った。
半沢直樹のように仕事に没頭して、成功できたらと淡い妄想を描き倒していたが、あれは半沢直樹だからできる仕事の仕方なのだ。それに、仕事は没頭するから上手くいくのではなく、上手くいくから没頭でき、その先に成長があり、成功もするのだと思う。
私は半沢直樹のやり方を真似しようとすると精神がおかしくなることが十数年働いてきてようやく悟れた。
というか、そもそも私はどう考えても今の仕事が向いていないのだろう。なぜなら精神状態が徐々に悪くなっているからだ(転職前よりは若干マシだが)。
私はまず今の仕事を辞めて、単身赴任も辞めて、家族と一緒に生活をする。
そして、精神科で治療を続けながら、新しい職場を探す。
職種や仕事内容は大きく変えない方がいいだろう。そして、責任がほぼない、言われたことを黙々とする仕事を探す。
これは、2つ目の職場ではじめは何も責任が生じておらず、仕事もほとんど回ってこなかった時期があったことが理由だ。その時の私はすこぶる体調がよかった。夜はしっかり眠れ、休みの日は運動をして、暴飲暴食もなく、体重も精神も適正であった。仕事が回ってこなかったのはとてもストレスだったが、それで精神科に行かないといけないほどの状態にはならなかった。
つまり、私にとって仕事とはその程度のものであるのだ。私の心の天秤は「何かを成し遂げたい」よりも「楽に生きていたい」の方が圧倒的に重たいのだ。
だから、これからは自分に見合った場所を見つけて、そこで静かに過ごしていけるようにしたい。それが私が幸せにつながる予感がする。