わたしには夢がある

自分なりに調べたこと、思っていることを書き記していきます。頑張ります。

私のお気に入りのコップ

コップの大きさは色々で、一つとして同じ大きさのものはないでしょう。大きさが違えば当然注げる水の量も違ってきます。注ぐものもコップによって相性があると思います。私が持っているコップは既に満タンを既に超えていて、コップの周りはびしゃびしゃに濡れている。勢いよく注ぐものだからコップも気が付けば横たわっており、その際の衝撃でひびすら入っている有様だ。

コップは大きくしていける、まだまだ注げる、そう信じていたが、やっぱりだめだった。元々自分に与えられた大きさは生涯変わることはないだろうし、注げるものの相性もきっと変わらない。そこの見極めを間違えてしまった私のコップは実に悲惨な結末を迎えようとしている。「どうしてこうなったのだろう」、自問自答しても一向に出口は見えてこない。もしくはコースアウトしているのか、それすらもわからない。暗中模索のまま突き進んでしまった結果、色々と取り返しのつかない事態に陥っていることに今更ながら気づく。と言うことは、私は自分が迷い込んだと思い込んでいるトンネルからはもうとっくのとうに抜けていて、にも関わらず、私はトンネルを抜けた先にある現実という壁を直視できず、いつまでも盲目を装い、あたかもトンネルの中を突き進む感覚に無理にでも浸ろうとしているのではないだろうか。

目の前の壁に対して直視して、その先をどのように歩んでいくかは私次第だ。もういい加減自分が掲げたあまりにも尊大な理想に対してわざわざ自分から巻き込まれに行くことはもうやめにした方がよいのかもしれない。少なくとも肉体的、精神的には、とっくの昔からそのシグナルを発信している。私も薄々気づいており、それでも何とかなるだろうと淡い期待をいつまでも自分に寄せていたが、それが自分で自分の首を真綿で徐々に絞めていくことになっていた。

今の仕事は三大欲求を除いた私生活での活動を含めた中で、これまでで一番長く続けていることだ。だからこそ、諦めたくない気持ちが最後の最後までコップの中に微量ながらも残してある。でも、それを注ぎ続けてきた結果が今の私の現状であり、それは私が掲げる理想とは非常に程遠いものである。つまり、私は自分のコップがどんな大きさで、形で、どんなものを注ぎ込んだらよかったのかを十分にわかっていなかったのだ。でも、現実問題何かを注がないと何も始まらない側面もあるため、とりあえずは注いでみたのだ。

横たわるコップに何かを注いでもこぼれるだけだ。だからまずは横たわるコップを元に戻さないといけない。そしてひび割れた箇所を直さないといけない。そして、その過程で自分のコップの大きさや形がどんなものなのか、これから新たに注げるものは果たしてあるのだろうか、もしあるのだと期待すれば一体どのようなものを注げるのか、色々とじっくり考えてみることが今の私にとって一番大切な作業なのかもしれない。